言葉が通じない。 心も伝わらない。
思いはどこにも届かない。
かつて神の怒りにふれ、言語を分たれた人間たち。

我々は、永遠にわかり合うことはできないのか。
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2010.03.18 Thursday 
- -
ブエノスアイレス

 高貴な靴の音がする。

踵で木の床を蹴り上げ乾いた音が辺りに響きわたると同時に男の背筋がしゃんとなる。
女はその男の背筋に入った軸を中心にクルクルと回転し始める。
男の顔にも女の口元にもわずかな、そして嫌味のない笑みが浮かんでいる。
身体は熱く、ほとばしるような汗がその激しさを観客の目に残させる。
恐ろしいほどの早さで動くつま先、針金がびっしりと入ったような指先、彼らがステージを動き回るその線をなぞるかのように共鳴し合うバンドネオンとリズミカルな照明、そういうものたちが寸分の狂いもなく、一律に保たれているのだ。
観客の目は皆、焦点に収まることなく、どこかぼんやりとしている。それは、彼らのスピードに追いつけないという理由もあるのだが、ステージにあるそれぞれがそれぞれの動きや形を示しているので、意識を広く開かざるおえない。ただ、その一つ一つが強烈で、更にそれらには深く関係性が帯びていることがよくわかる。

解らない、といった感覚が始めの5分間に湧き出てくる。
しかし、そのよく解らない、ということを隣の友人などに伝えようとしたとき、そのよく解らないという苛つきが、次の瞬間は不思議な安堵感に変わっていることに気づく。
人生で初めてダリの絵を目の前にした時のような感覚に似ている。
ただ解らないという目の前のものから自分自身に返ってきたとき、自分の内の安堵感があふれていることに気づく瞬間。その瞬間は長く続かないことを知っている。
できるなら、もう少しの時間そうしていたいと願いながら、その終わりを知っている。
その安堵感に酔いしれるとき、人はそこからもう既に抜け出せない。

その次にやって来るバカでかい壁みたいなもの。そういうものが近づいてくるとき、その男と女はしっかりと抱き合いながら、次第にゆっくりとステージに着地する。照明は息を失ったかのように色彩を消し、モノクロ状態のまま彼らにすべてを託している。
バンドネオンやチェロたちは互いに視線を交えながらニヤニヤしている。細い音を垂らしながら、波打つように楽器に描かれた蝶の模様を押したり引いたりしている。
我々は次々に瞬きをしながら、やってくるその壁に恐怖を感じている。
世界の果てからやってくるような四角い箱にぎゅっとおしこめられた悲しみの旋律に流されながら、男と女が愛しあうのを見ている。

誰だ?私たちをこんなにさせたのは。

憎しみと憎悪の塊が会場全体に響き渡るそのエネルギーの中、男と女だけが愛し合っている。
だから観客たちはその一点に救いを求めるように意識が吸い込まれていくのだ。
恐ろしい。そのどうしようもない絶対的な恐怖を背に皆がその二人に救われようと必死だ。
その壁がついに目の前に現れたとき、誰もが発狂寸前だった。

次の瞬間、壁が勢いよく前のめりに倒れた。ものすごい音が辺りに充満したが、すぐに現れたのはくらむような光、光、光。
永遠に続くと思われた恐怖から救われた観客たちは一斉に立ち上がってしまった。
光の中で男と女は何もなかったかのようにまだ踊り続けている。
音楽家たちはその男と女を祝福するかのように一気に頂点を駆け上がってくる。誰かが大きなため息をついた。目の前が真っ白になり、観客たちが気づいたときにはもうすでに男と女はフィナーレを迎え、深々と頭をこちらに向かって下げていた。
誰かがブラボーと叫んだ。
その声はどこか人の声ではないように聞こえた。高く澄んでいて、その場ではそれはステージの一部なんだと誰もが感じた。一つ、二つと泡が弾けるような拍手が辺りを包む。
誰かがまた大声で何か叫んだ。
しかし猛烈な拍手の音で消えた。

僕はゆっくりと席を立って、ブエノスアイレスの街に出た。


2009.03.20 Friday 12:44
石松子として comments(0)
乱雑する残像
 それは同じ速さで横にスライドする。
目で追えないくらい早くて、僕にはそれが何だったのか、認識できていなかった。
教えてくれたのは、foxと名乗る婦人だった。
一つ一つ、それが通るたびにそれが何かを言い当てた。
「簡単よ、こんなの」
と目尻を少し浮かせて答えた。
僕たちは一定の速度で右から左へ動く何かを少し高台になったコンクリートに座り、肩を並べて見ていた。
何かが通るたびに二人の首が同時に同じように動く。

僕はばからしくなってやめた。
「どうせ、僕にはわからない。」
彼女の首だけが右から左に回転する。

「あきらめてはだめよ。しっかり見なさい。とても大事なことなんだから。」


2009.03.29 Sunday 03:10
石松子として comments(0)
土(過去にある記憶)
私は今日、土を買った。 


偶然通った山道の脇に古ぼけた屋台のような店がぽつんとあって、気になって足を止めた。

 「土屋」と大きく書かれた看板の他にはたいしてなにもなく(その時は土もなかった)老人は禿げあがった頭を掻きながら、面白くもなさそうにテレビを見ていた。 
小さなテレビではいかにも古くさいモノクロのやくざ映画がやかましく流れていて私が老人に話しかけようとした時、テレビの白粉をした女にやくざの男が「てやんでい!ぶっ殺してやる!」と叫んで包丁をすばやく出した所だった。
老人は私に気づき、面倒くさそうに振り向いて「あああ、なにかあ!?」と、老人の声はまるではるか向こうの崖のふもとにいる人間を呼ぶような大きな声だったが、私はそのやくざの男が「てやんでい!ぶっ殺してやる!」と叫んだことについて少し考えていて(例えばどうしてそのやくざの男はその女にそんな暴言を吐かなければいけなかったのかということだった)、私はそれに対してどう反応していいか分からずとりあえず「分からない」という応答をしなければいけないと思って声が食道のあたりからゆっくり出てきてそれは喉のどこかの突起物にあたってしまって「え?」という音調が「か?」に変わってしまった。
乾いた咳をしてもう一回はっきりと「え?」というと何かしらやっと宙に浮いていた私が帰ってきた気分になった。 よし、これでよし、そう自分に言い聞かせた時、老人は残酷にももう一度「なああにいいかああ!?」とさっきよりも苛立った声で叫んだ。幸福なことにすでに私の中では既に免疫力が構成されてあり、同じ問題には対応がすごくスムーズに私の中で理解できて、老人の声の大きさを除けば、私は老人に対して自然な笑顔も作れると思った。 

私は周りをぐるっと見渡し、ゆっくりと息を吸って「土を買いにきました」とはっきりと一語一語間違えずに声にした。 

その時、不思議なことが起こった。「サイコキネシス」。物に触れずに精神力だけで、目の前の物をうごかしてしまう。 つまりは念動のようなもの。私はその力が瞬間的に目覚めたのだ。目の前の老人をどのようにするのかは、まさに私のサイコキネシスの力でどうにでもなる。

 それが老人に分かったのか、それとも老人の精神を私が支配してしまったのか、老人はさっきまで頭が地面につきそうなくらい曲げていた背中を、急にしゃんっと伸ばして(老人は急に巨人になったのだ)、はっきりとした口調で話し始めた。 

「あっ、そうですか。すいません、ちょっと待ってください(テレビのボリュウムを下げる)。ああ、土をお買いあげで。どんな土ですか?色々種類があるんですよ。ほら、こんな赤い土もあれば、緑の土もあるんですよ。これはねえ、噛めば噛むほど甘みが(と言いながら袋からスプーンで取って口に入れた)、ああ新鮮だ、みずみずしいなあ、この黒いのはね、火山灰土の表層土でね、どこだっけなあ、茨城だっけなあ、パサパサしてるけどこれもいける、どうですか、オニイサン、少し味見してみませんか(銀のスプーンの上に山を作りそれを崩さないようにそっと私の口の前に突き出してきたので、私は思わず手でそれを受け取った)、そんなまじまじ見てもしかたありませんよ、こうすうっと吸い込むように口の中にいれてごらんなさい(老人の口が窄んで頬にあるシワがその唇に流れ込んだ)そうそう、ああああああ、もったいないなあ、オニイサン、咳き込んじゃって、こんなにいっぱいこぼして、ああもったいない(老人の白く長い眉毛がハの字になって、次は額に深いシワが何本も集まった)、まあまあ、お水をお飲みなさい、若い人は食べ方もしらないんだよ、まったく、 土のことを知っているのかね?土っていうのはねえ、生きてるんだよ、この中に何千何万という細菌と共に生きてるんだ、命がそれぞれに備わっている、だからほら、オニイサンが今咳き込んで吐いた土、あたしにゃそこに落ちている土たちが魚が水を無くして跳ね回っているように見えているよ(私が吐いた土はコンクリートの上で確かに異様なほど黒く、ドロッとして存在感があった)、生きているというのはそれ自体が動くことだ、変化していくことなんだよ、その一個の物体であり続けない、進化していくのさ、そしてその進化によって細菌や植物たちに多大な影響を与えていく、時にその影響力は恐ろしいことなったりする、それはな、オニイサン、死だよ、土が死んじまったら、その周りと関わってるもんはみんな死ぬ、よし、土の死体を持ってきてやる、ちょっと待ってろ、(老人の言葉使いは確実にさっきより変化していた)おお、これだ(薄暗い部屋の奥のほうから、かすれた老人の声が響いてきた)おい、これだよ、土の死体だ、そうだろう、もう死んで大分経ってるから腐ってるんだ、すごい匂いだ、こんなのに水だとか肥料とかを混ぜてもこの匂いは何にも変わらない、なんせ死んでるからな、死んでるものに何をしてもどうにもならないだろ、カ、カ、カ、カ(老人の目が何本ものシワに埋もれてどこにあったのか見失うほどに顔を歪め、また恐ろしいほど大きな声で笑った)


 いいか若いの、死ぬっていうのはこういうことだ、生きているっていうのはこういうことだ、わかるか? 


私は今日、土を買った。


 それは、まぎれもなく生きている土だ。


2009.04.01 Wednesday 00:23
石松子として comments(0)
其の時の夜明け

さっきから私はこの町の雲行きが気になって仕方がない。


ギュルギュルと流れていく雲はさまざまな形に変化しながら私の視界の端から端を走る。

私の届かぬ世界では風は直線に流れていくと聞いた。

何処の角を曲がるわけでもなく、ただ真っ直ぐに。


うねる太陽の光とともに私たちの其の時の夜明けが始まる。



朝だ。

昨日の夜、大群の野生イノシシに狙いをつけていたオハイオのハンターたちは明日こそと今まで以上に念入りにスケジュールを練っていた。ハンターたちがこの暗くてジメジメしたジャングルに入ってから今日でちょうど一週間が経ち、長い間腐った熊の毛皮を被り体中の皮膚は黄色く変色し目はみな赤く腫れ上がっている。昨夜、それぞれのハンターたちの視覚と嗅覚が自分の存在をも腐乱し始めていた時、ついに大地に群がるイノシシの鳴き声が聞こえた。

朦朧とする意識の中で彼らにとって聴覚だけが、存在でありイメージの源である。

ハンターたちはまず、イノシシの性質を重視した。どんなに危機な時でも個別で逃走するイノシシはまずいない。走る時は必ず、前方に走る仲間の尻尾を目安にするのだ。それに彼らは目が良くない。尻尾と股間から発せられる嗅いに向けて突進する。先頭にいるイノシシを追い込めばこちらの勝利になると考えたハンターたちは、其の夜初めて安らかな眠りについた。

彼らの究極の眠りを引き裂いたのは、ものすごい音と共に見た凄まじい光景だった。

イノシシたちの群衆は朝日が昇ると共に、川のふもとで崖から落ちて死んでしまった。

朝日はゆっくりと高い山の陰から光を放ち、イノシシたちの勇気ある行動とハンターたちの疲れきった顔を照らして今日の一日がスタートする。



フランスにいる白髪と金髪が入り交じっている87歳の老婆は、毎日太陽が昇る前にパンを買いにいく。

いつもなら分厚い馬の皮でできた赤いブーツと白いニット帽を被って出かけるのだが、今日は何しろ孫の誕生日。腕を奮って得意なラズベリーパイとムール貝のスープを作ろうと考える。

小さな目覚まし時計は今日も4時半にガラガラと音を立ててテーブルから転げ落ち、風邪をこじらした兎のように床で弱々しく震えている。彼女は毎朝、その兎を昨夜の鮭のムニエルとパンとコーヒーを並べながら蹴飛ばしている。

いつもなら1時間くらいかけてゆっくりとたいらげるのだが、今日は14分後には流し台に立っていた。さっき冷蔵庫を調べてみるとせっかく今日のために買っておいたムールとローリエの葉が無くなっている。何処を探しても見つからないのだ。

其の時彼女は直感でアイツだと思った。また、アイツがやってきたのだ。アイツは突然やってきて、常に何かを奪っていく。今日はまだムールとローリエの葉だけだから良い方だ。アイツは時々記憶まで奪っていく。気がつくと庭で裸で体操していたし、からっぽの水槽にセーターやらミルクやらレコードやらイチゴジャムやらをいっぱいになるまで押し込み出来上がった水槽をぼんやりとながめていたし、さっきまで何か同じことを必死に叫んでいたという意識がしっかりと喉の奥の方の痛みにひりひりと感じることもあった。

そんな時は彼女はゆっくりと深呼吸をする。

時間という流れを正確に捉えるために、今からの一時間のプランをものすごく細かく、そしてじっくりと練る。今から2分後、私はこの流れている水を止め急ぎ足で寝室に向かいタンスを開く、そして茶色のハイネックのセーターとエメラルド色のスカートをチョイスする、それがだいたい今から4分後。在り合わせの靴下と一枚しか持っていない白のウインドブレーカーをはおり化粧を始める、まずはマスカラからファンデーションに入り濃い赤の口紅を分厚く塗り最後に眉を書く、重要なのは目尻から山を作っていくことだ、化粧が終わるともう一回鏡で全身をチェックする、だいたいこの時が今から20分後。チェックは妥協を許さない、色のコントラスト、立体感、そして何よりも大切な今の自分の優越感と自尊心のバランス、すべてが完璧に揃うとそこから発声練習に入る、AAAAAーーーーFINFINFIN、フィンフィンフィン、アーーー、これを25分間続けていると頭の中には真っ白な雲しか残らない、ここで一時間が経過しているだろう。そうだ、ここで一時間だ。さあ、と顔を上げ予定通りにジャグジの水を捻ろうとした。

何かがおかしいことに気づいた。何か間違っていることが私の周りで起きている。まるで、雑誌の後ろのページでよくある間違い探しの二つの絵のように。どちらが真実なのか、わからない。私だろうか、それとも私を取り囲むすべての情景が本当の姿のだろうか、私が見ているのは何かが違う世界なのだろうか。私と、そこにいる私の分離が始まる。その割れ目を狙っていたかのようにアイツがすっぽりと入ってくる。水道からドロドロと流れ落ち真っ白な皿で弾け飛ぶ何かが何なのか、さっきから冷蔵庫からブーンと聞こえるのは私が飼っている巨大な虫なのだろうか、自分の顔に手を当ててみる、なぜ私の顔はこんなにもガサガサしているのだ、私はいったい何年間このキッチンに立っているのか、自分はもしかしたらサナギかもしれない、あちらからなにやら叫んでいるのは私の母親かもしれない、私はもう少ししたら体に何かしら変化があって美しい生き物に生まれ変わるのだ、そしてこの狭い暗い部屋を飛び出し大空に舞うのだ、ハッとした。老婆は小さな蠅が舞う黄色い電球を見ながら、にやりと笑った。其の時、彼女と、彼女のアイツが和解した。私は、まぎれもない私なのだと。私の周りで何が起ころうとも私は、私自身なのだ、それだけは誰にも邪魔はさせない、たとえ、何を失っても。

すぐに老婆はまだ薄暗いパリの夜明けに飛び出した。誰もいないいつもの坂道を駆け上がる。辺りはまだほんのりと夜の匂いが残り、やわらかな風が朝日の匂いを老婆の肌へと繋いでいた。汗が体中から吹き出してきた。

これだ、と彼女は思った。

この感じをずっと求めていたような気がする、初めて男に抱かれた次の日の朝にもこんな気持ちにはならなかった、初めて「トリコロールに燃えて」を映画館で見た時よりも、妊娠してその時の男がベットで愛してると言った時よりも、3番目の別れた暴力亭主が山で崖から落ちて死んだと新聞で発見した時よりも、借金して作った小さなパン屋に来た若い男が私を見てきれいだと言った時よりも、一番上の娘が30も離れた男と結婚したいと言い出し頼むから不幸な人生は選ばないでと泣きついた時に耳元でママ泣かないでと言われた時よりも、そして太陽はずっとそんな私たちを照らし続けているということに気づいた時よりも、彼女は感動していた。額に付いた汗を両手で拭うと、なぜか涙が溢れた。結局、こんなに簡単なことだったのに何十年も周り道をしながらようやく辿り着いたのだと思うと、どうしても涙がとまらなくなり、体の中から大量の言葉が喉をつたってあふれるように叫びだした。頭で処理できない言葉たちは自然と旋律をたどり、それは歌になった。彼女はその彼女の中にある見えないエネルギーに身を委ね、にわかに明るくなってきたパリの町を走り続けた。町が、朝日が、空が、鳥たちが、人が、「私」と共に歌っていた。「私」と「新しい私」との出会いを祝福していた。

しわくちゃになった両手を空にかざすとすっかり朝日の匂いを含んだ風が老婆をつつんだ。



なるべく、私は自分を探すようにした。毎日、毎日、一つずつ、自分という存在や原点を探し、問いかけた。その老婆のように革命を起こしたことも数え知れない。「もう一人の自分」と確実に区別し、決して和解はないと確信していた。こんなことをしてもどうなるわけでもない。ハンターたちのようにエゴと私の自尊心が猛烈に奮起したところで、私は満足した。私は今、その頂点を裸足で踏んでいるのだと錯覚しているのだ。


そして、私は今日もこの町の雲行きを見る。其の時の夜明けにはただ一定の風が流れている。



2009.05.02 Saturday 11:28
石松子として comments(0)
刺青(価値と創造)
 一枚の写真がある。

中央に裸体の女の身体がシーツに曲線を波打ち、うつぶせで寝そべっている。その背中には大きく真っ赤に口を開いた般若の顔が描かれている。肩から尻にかかるまで彫られたその刺青はどこか哀愁のある般若の視線の角度とその周りを包み込むような青い炎がとても印象的だった。

まだ彫りたての刺青で一本一本の線を沿うように皮膚が赤く膨れあがっている。

私はその線を写真の上からなぞってみた。

痛いよ、と身をよじらす紀代子の姿が見える。

 

紀代子は2年前に50階建ての高層ビルの屋上から身を投げて、死んだ。

私はその時、そのビルの45階で当時付き合っていたデザイナーの女と食事をしていた。メインディッシュが運ばれてきたその時に急に電話が鳴り、

「今から私が本物の天使だっていうこと、証明してあげるわよ。」と、

呂律が回らない舌で紀代子は話し、私はまた薬だなと直感で思った。

「もう、やめてくれ、紀代子。」

それだけ言うと私は一方的に電話を切った。

テーブルに戻って、器に乗っている豚をデザイナーの女の皿にナイフで切り分けていた時に、ちょうど目の前の夜景を映す窓ガラスを大きな白い影が通り過ぎたのだった。私は一瞬でそれが紀代子だと分かった。

すでに何人もの人に囲まれていた紀代子の背中にしっかりとつけられていた白い羽が赤く染まっていくのを私はしばらく眺めていた。

後から聞いた話によると、紀代子は飛び降りた直後、まだ立ち上がろうとしていたらしい。天使の羽が少しの空気抵抗の役割をしていたようだ。彼女が薬漬けにならなければ、50階から飛び降りても助かっていたのかもしれない。もしくは彼女は本物の天使なのかもしれない。

私は紀代子の写真をポケットにしまうと、目の前にある錆び付いた手すりをまたいだ。

般若の目がまるで闇夜に浮かぶあの三日月のようだ。

街のネオンから吹く風が私の火照った頬を冷やし、少し酔いが醒めてきた。

私は今何をしようとしているのか、さっきまで何を真剣に考えていたのかがうっすらと浮かび上がって来ると同時に紀代子の顔や般若の目が遠のいて行く。

私は、と思った。

そこから飛び降りることができない私と、紀代子の赤く染まった天使の羽が交互に点滅している。

恐い。ただ、私は恐いのだと、その時強く思った。

さっきから足の震えがとまらない。紀代子は震えなかったのか、あの美しい白い肌に刻まれた般若はこの50階から降下して行く時、飛び出そうとはしなかったのか。もう一度、あの般若の目が見たくなった私はポケットから写真を取り出そうとした。その瞬間、後ろから待ち構えていたかのように突風が吹き、写真が夜空に舞った。反射的に手を伸ばして掴もうとした私は足を滑らせ重心が揺れて目の前の空中に投げ出されたのだった。落ちた先はすぐ下にあった室外機の上だった。もしそれがなかったらと考える前に私は自分の身が叩き付けられた衝撃の痛みと、飛び降りる気になっていなかった自分に対しての恐怖に目を丸くしてガタガタとおののいたのだ。

 

私はきっと紀代子を裏切ってきたのだ、こんな風にして。天使にも、般若にもなれない私はこの闇夜の中で不幸か幸運か室外機に落ちて泣きべそをかいている。私はどうすればいいのだろう、何をすれば救われるのだろう。



ネオンの光の一つ一つがやけに大きく見えて視界が光でいっぱいになっていく。



2009.06.24 Wednesday 22:55
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プルメリア
 その夜はうねるような暑さが大気中を流れ何人もの坊主が修行中にもかかわらず氷を口いっぱいに頬張り、やっと寝床についたのだった。

暗い蚊帳の中で一人の若い坊主が、僕はもう帰りたいとつぶやいた。

結局、その暑さのせいでどうにもこうにも寝れなかった他の坊主たちはその小さな小さなため息のようなつぶやきを誰もが聞かざるおえなかった。

シンとした一本の張りつめた糸が暗闇の中を通り過ぎようとしているその時、氷をがしがしと噛み砕いたまたもう一人の坊主が急に立ち上がった。

*ようし、それでは只今から身もよだつようなおぞましい話をお前らにきかせてやろうじゃないか。
と、目一杯声を荒げた。

大広間にあるいくつもの蚊帳の山からもぞもぞと蠢き、何人もの坊主が一つの蚊帳を目指して集まってくる。

+なんだ、皆起きていたのか。

@可笑しそうではないか。

¥それはどんな話だ。

%恐くなかったら承知しないぞ。

一つの蚊帳の中の蝋燭に灯がともされた。
炎の明かりに照らされ集まった坊主頭の影が障子の淵で揺らめいている。

*まずは、みな銭を放れ。でないと、わしは唇一つ動かさぬぞ。
なにしろわしはたった今、氷を喰ったのだ。痺れて動かぬ。少しでもそれを温めようと思うのなら、わしのふところを喜ばせぬか。

$なんだ、銭集めのたわけ者か、くだらん。

と、最長齢の坊主が怒鳴り、隣にいた坊主の頭をはたいた。

#おい貴様、銭をだせ、そうでないとこいつは本当に話さんではないか。

!いやじゃ、いやじゃ。聞いてもない話のためにどうして銭が放れるものか。

またごろごろと我がの蚊帳へ帰っていくものもおる。

辺りの大気が一層に暑さを増して、口の中の氷が溶けていくのがわかる。

*お前たちの中で、女の股口を見た者がおるのか。

#$%&+¥♤◉☆❖◯

坊主が黙る、黙る、一斉に黙る。

&◯女の股口を見たのか、大和尚が絶対に見てはいけぬと言われておったあの「かくしどころ」を?

#☆見たものは死ぬぞ

%$◉ひと月以内に死ぬぞ

坊主が一斉に怒鳴る。

*馬鹿どもよ、何ぞ見ても死なぬ、ほれ、わしがみたのはひと月もふた月も前のこと。こうしてわしがここにいるではないか。その話を聞きたい者は銭を投げえ。

最長齢の坊主が目を丸くし、もう帰りたいと泣いていた若い坊主が目を輝かせた。

銭が畳を打つ音だけが静まった夜に響き渡る。

*あの日はなあ。やたらと雨が降り続く日じゃった。

と銭袋の中を覗きながらあご髭を撫でた。

息を呑む坊主たち。

*わしがいつも通り夜更けのお経の後、便所に行った帰りの廊下の軒下で一人の女が濡れて立っておったんじゃ。女がここで何をしてるのか、と尋ねると女は黙ったまま唇一つ動こうとせぬ。
わしは、人を呼ぶぞと脅した。それでも女は前に垂らした黒髪の隙間からわしを上目でじっとみているのじゃ。まるで月を逆さにしたような目でこっちを見とる。恐ろしくなってのう、幽霊じゃと思った。わっと叫びながら、逃げようと思った。

わっと、というところで全員の身体が一瞬宙に浮いた。

*しかし、なぜか喉も身体もまったく動かぬわ。指だけが違う生き物のように震えてのう。必死にナンマンダブと心で唱えておった。
ふいに、女がけたけたと笑いだした。
わしは何度も舌を噛みながら、なぜそうも笑うのかと問うてみた。

そしたらなんと言ったと思う?

誰かの唾を飲み込む音が辺りに響いた。

*あんたの股口が開いておるぞ

#$%&+@¥
ワッハッハッギャッギャッウッホッホップップップ

+なんだ、お前のか

&お前の股口か

%そりゃ恐ろしいわい

#$%&+¥♤◉☆❖◯

皆が恐怖の中に滑稽な窓を見つけて、まるで逃げ惑う虫のように笑い転げた。

しかし、話し手の坊主は思い思いに笑い転げる坊主たちを一喝するように、立ち上がり大声で叫んだ。

*その女はいきなりわしを押し倒し馬乗りに股がり、わしの股口を喰ったのじゃ!!

と、勢いよくたもとの結び目をほどき、男の股口を露にした。

そこには股口の周りが赤く腫れ上がっているだけで、むしり取られたような皮膚が爛れて垂れ下がっていたのだった。

誰かが隣の坊主の肩に嘔吐した。かけられた坊主も前にいた坊主の背中に向けて嘔吐した。
嘔吐物が匂いを放ち、他の坊主もたまらなくなり嘔吐する。部屋中に胃液の匂いが充満する。

目を閉じ、手は天に向けられ、ゆっくりと深呼吸している。

*その時わしが見た女の股口、蛇のようにヌルヌルしておった。
真っ白な肌の先に内蔵の一部が出とるようだった。
何度ぬぐってもそこから溢れ出る液体は、わしの股口を包んでのう。

しかし、なんともいえぬ高揚感を味わったぞ。


全員が寝静まった後、若い坊主は縁側に立ち、月の光に照らされる自分の股口をじっと見つめていた。

神々しく天に向けて反りかえる身体の一部をじっと見つめていた。






2009.07.14 Tuesday 10:27
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ラジオ体操
 見たこともない虫が机の端で死んでいた。

その虫を見つけたのは「先生」がラジオ体操のテープレコーダーの再生ボタンを押してから2、3秒経ってからだった。
カラカラと乾いた音をたてながら、中の重い車輪が回り始める。

「先生」は水色のジャージのズボンの中にシャツが入っているかを確認するために、人差し指でゴムバンドを伸ばしている。
それがポンっと腹にあたって気持ち悪い音が辺りに響いた時、あおむけになっていた虫の足の一本が少し動いたような気がした。

私は、昨日の夜に起きたことをもう一度頭の中で整理しようとしていた。


ピアノが軽快に鍵盤をたたく。
イチ、ニイ、サン、シ、イチ、ニ、サン、シ、

ふりあげた片手の先がすぐとなりにいた「先生」のそでに触れた。
一瞬、「先生」が動きをやめてこちらを見たが、すぐに元の体操に戻った。
もう一度、「先生」が私の方を見た時、私は突然デジャヴのような世界に陥った。

「その次は「先生」が私を殺しにくるよ」
ふいに頭の中から声が聞こえた気がした。
男の低い声だった。
動揺しまいと、ラジオ体操に集中する。

てあしのうんどう!
指先まで針金が入ったように伸ばす、伸ばす、伸ばすんだ。

ななめうえにおおきく、おおきく、おおきく。
弾みをつけて、ねじるうんどう、ねじる、ねじる。
しょうめんでほい、ほい、ほい。

なぜかこだまするテープレコーダーの音を聞きながら、私は「先生」の視線を感じている。
私は目を合わせないようにまっすぐ正面を見ているが、まだ「先生」がこちらを見ている。
「先生」の視線が私の鼻の辺りから、下におりてくるのがわかる。

私はその虫の足が何本あるのか数えてみる。
イチ、ニ、サン、シ、イチ、ニ、サン、シ、

「先生」の視線が胸元から尻に向かってなぞってくる。
虫の足は短いものも入れて全部で15本あった。
ラジオ体操のかすれたピアノの音色としゃがれた中年男の声が部屋中に響いている。

昨日の夜、私は何をしたというのか。
なぜ、私はあんなところにいたのか、思い出せない。
私はひどく酔っていた。

「殺されるよ」
今度ははっきり聞こえた。
とっさに死にたくないと思った。
きっと、この「先生」の声だ。
祈るように、「先生」を見た。

はい!うしろそり、そり、そり。

「先生」の背中はブリッジを描き、頭が床につきそうなくらいに曲げていたので「先生」の表情が分からない。

そうだ、私は昨日神社にいた。赤い鳥居をくぐったのを覚えている。
そこで何を見たのか。
写真、フラッシュが私に向けてたかれていた。
そのせいか白い光が私の記憶のあらゆる隙間に挟まっていて、写真の早送りのようだ。

銅像、砂、赤い鳥居、七五三縄、蛇、爪、青い花びら、虫、虫、虫。

どんな虫だったか、そこに横たわっている虫だったか、こんな虫だったような気がする。
「先生」の視線は私の尻で止まっている。
ラジオ体操のピアノは急にテンポが早くなり、そこにいた全員が飛び跳ねて地面が揺れた。
「先生」は視線を尻に向けたまま飛び跳ねている。
イチ、ニ、サン、シ、イチ、ニ、サン、シ、
あしをもどしてりょうあしとび、とび、とび!

私はなぜここにいるのか。
私はどうして「先生」に殺されるのか。
私はどうやってこの虫になれるのか。

視線、視線、視線。

15本もの足がある死んだ虫を見る私を見る「先生」が飛んでいるラジオ体操のリズムに合わせて動く私が思い出す死んだ虫が横たわる机の前で飛ぶ「先生」が見る私が見る死んだ虫になりたい私が思い出す赤い鳥居の前で死んだ「先生」に殺された私が聞こえる声を聞く私を見る「先生」が殺したい、私は虫だ。

はい、深呼吸!
「先生」が最後にそう叫んだ。
大きく息を吸い込んでいきます。

イチ、ニ、サン、シ、イチ、ニ、サン、シ、



そうか、私は「先生」が好きでたまらないんだ、と息を吐きながら、そう思った。


2009.08.01 Saturday 09:13
石松子として comments(0)
h・o・n・e・s・t・y
 僕はペンを落とす。

床にパタリと落ちたペンに、伸ばす僕の手はとてもやわらかでその指先は艶っぽく輝きを徐々に膨らませている。

僕は「はさみ」で紙を切る。

もっと奥へ奥へと吸い込まれて紙の先端の部分が「はさみ」の深い谷間にうずくまっている。
そこから一本の真新しい経度がその端から端へと勢いよく走り去る。
分裂してしまった瞬間にはじけ飛ぶ音が心地よいのは、そのはさみにびっしりとはりついた僕の手へ微々たる振動が、なんともいえず、ただ、僕の意識に刻まれていくようだった。

僕は両手でキーボードをたたく。
それは明らかに左小指がAという1コマにリズムよくピストンし続けることで、何も誰も褒められたいとか、うっとりと眺めて欲しいとか、そういうのではなく、著しく他の指はAのすぐ後に続く何かを待って、そして求めて、乾きつづけているのだ。まるで、晴天の空に鎌を振り上げるあの農夫のように。




生温かい君の唾液にまみれて、僕はまたそこから産声をあげる。


もしかすると君もそうやってペンを落としたり紙を切ったりパソコンでくだらないことを書いたりしながら、何かにおびやかされるのを待っているんだろう?

頑なまでに君は股を広げようとぜず、その石のように閉鎖されたドアを僕は何度も上下左右にやさしく撫で回しながら、耳元でこうつぶやく。

「本当は、どうなんだ?おい」 と。


2009.11.03 Tuesday 09:18
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The RED
 女たちは音楽が鳴り始めると一斉に立ち上がり、ランジェリの肩ひもを下ろし面倒そうに突き出た尻をお客の鼻に押し付けるのである。
私の相手をした女の下着は紅白の斑点模様が印象的だった。
たっぷりとぬりつけてある柑橘系のコロンの奥に生々しい血液の匂いが一瞬鼻を刺して子どもの頃に父に無理矢理食べさせられた「馬刺し」を思い出させた。
上等な皿に乗せられた祖母の歯茎のような赤く光沢のある馬刺しを箸でつまむとまだ血液がじわりと浮き出ていて、父はそれでも私に食べろと促したのだ。これを見てみろ、父はそれを箸でつまみあげながら後から次々に落ちてくる赤い血液を人差し指に垂らしている。まだ新鮮だ、さっき絞めたばかりの馬だからな、人間だけなんだ、肉を焼いて食うのは、本来はみな生で食うんだよ、よく知っておきなさい。それから私は赤い食べ物は生では食べなくなった。トマトでも刺身でも真っ黒になるまで焼かないと気持ちが悪いのだ。しかし私の父は、どこからともなく滴り落ちてくる血液をもったいなさそうに舌で受けてから人差し指についたドロっとした血液を音をたてて吸うような人間だった。
そのとき、父の赤い唇が赤い血液で濡れて光っていた。

女は音楽が終わるとゆっくりと私のひざに座り後ろ向きのまま首をもたげ私の赤い唇を音をたてて吸った。私の両手の指は女のみぞおちの辺りで組まれているが、少し震えているのがわかる。
女の赤い舌が私の赤い歯茎に触れる度に指先が震える。すりガラスの向こう側でデブの大男がその半分ぐらいしかない女の小さな胸の谷間に顔を沈めている。ネクタイを緩めたワイシャツがべっとりと肌にはりつきランニングのラインが浮き出ている。女がその筋をいじらしくなぞりながらニヤニヤしている。赤い歯茎がむきっと出て白い歯だけが薄暗い照明の中で浮き出ていてすりガラスを通してもよく分かった。カラフルな照明ライトがぐるぐると天井で回っており、5秒に1回だけ赤い照明ライトがその女の歯茎を照らした。
ねえ聞いてるの、と目の前にいる女が耳元で叫んでいるが私はさっきからそのすりガラスの向こう側のデブの大男とその半分しかない女のシルエットに集中している。そのシルエットはどこかの国で湧き出る噴水ごしに見た肖像物だったような気がする。ちょうどこんな風にピントがあっていなかった。

(ぱきすたんだったかあるぜんちんだったかうずべきすたんだったかそうかんがさいごにつくくにだったなほかにんといえばかざふすたんかちがうちがういらんちがうちがうろんどんはくにじゃないしああめんどくせえなあなんででてこないんだほらあのかたちだあのあのあのあのあかいあかいくにだそうだおもいだしたあのあかいくにまっかなちにそまったくになにもかもあかいろにそめられたひともまちもどうぶつもたべものもびいるはみがきこもかみのけもまっかだまっかまっかまっか)

そうだ。スペイン。
真っ赤な愛のバルセロナ。
思い出してごらん。
生まれたばかりのあなたを。
子宮から転がり落ちた真っ赤なトマトを。
真っ赤な記憶を。





2009.12.08 Tuesday 23:45
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